Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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no.1

<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」――」――「応答型文章完成法(Responsive Sentence Completion Test)」による言表分析の試み
[First draft:2006.12.12-2007.1.24.]

1.はじめに――「優生主義」の普遍化
「遺伝子レベルの障害」と表現され得る事態がもたらす諸問題の克服は、医療・保健・社会福祉が統合された政策・実践領域において、新たな社会的課題となりつつある。生殖医療を始めとする先端医療の現場では、着床前受精卵の遺伝子診断や受精以前の卵母細胞の減数分裂過程で形成される極体診断、母体血清マーカーの遺伝子検査等が、根治不可能とされる遺伝性疾患の発症が予測される子どもの出生の予防、さらには多因子遺伝病とされる生活習慣病の遺伝素因を持つ者の抽出と選別を可能な達成目標としている。(注2) 近年の医療・保健・福祉政策の統合という動向は、要介護状態の予防(「介護予防」)を主要な政策目標にしているが、こうした状況において、個人、カップルの自由な選択による遺伝性疾患の診断、治療、予防という「新優生主義」理念の実践 (注3) が、ハイリスクグループとして抽出された集団の社会的選別過程として現実化していくという事態が予測される。それは、法制度等の公的言説におけるその存在の否定あるいは否認を乗り越えて展開していく可能性を持ち、その展開過程が他者への寛容への深刻な打撃となるであろう、汎社会的領域における「優生主義(Eugenics)」の普遍化という事態である。
2. 「普遍化された優生主義」の分析に向けて
本論は、「優生主義」を、正/負の価値軸に応じた社会集団の選別を目指す思想と実践と定義する。この思想と実践は、「この私の(または誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」という言説として明示化され得る無意識的信念にもとづくと仮定される。本論では、この信念を「普遍化された優生主義」と呼ぶ。本論では、「普遍化された優生主義」を、<我々自身の無意識>として捉え直し分析する。
上記の信念は、「QOL(生存の質:Quality of life)」という概念を、我々自身の生存を隈なく包括する価値尺度として先取りしており、「個々人の生存価値はQOL(生存の質)という価値尺度によって一元的に階層序列化可能である」という信念に置き換えられる。本論において遂行される言表分析がその批判的な機能においてターゲットとするのは、我々自身の生存を隈なく包括する価値尺度による我々自身の生存の階層序列化という事態である。(注4)
現在上記の信念は、「テクノロジー(技術的介入)によるQOL向上は正当化できる」という信念に置き換えられている。本論で遂行される事例分析のターゲットは、遺伝子の選別・改変というテクノロジーによるQOL向上という想定に関わる無意識的信念である。従って、この場合<我々自身の無意識>は、「遺伝子の選別・改変によるQOL向上は正当化できる」という言説として明示化され得る無意識的信念となる。
上記信念との関連で本論が注目するのは、遺伝子診断等のテクノロジーの急激な進展を核として統合されつつある医療・保健・福祉の実践が法制度と結びつきながらグローバルレベルで展開する多様な言説実践である。日本におけるその法制度として、1997年に成立し2000年に施行された介護保険制度が存在する。こうした社会的文脈を踏まえ、本論で遂行される事例分析の被験者は、介護保険の現場に従事する民間在宅福祉サービス提供事業者職員とする。<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」は、本論が試みる「応答型文章完成法(Responsive Sentence Completion Test)」を活用したアンケート調査を通じて言語化される。以下、アンケート調査の応答文のサンプル(実際に使用する質問票)を示す。
【質問票】
*性別 (女性・男性)
*年齢 (20代・30代・40代・50代・その他)
*職種 (ケアマネジャー・ケアコーディネーター・ヘルパー・その他)
下記のそれぞれの<a>欄(以下、「テーマ文」と表記される)の発話文を読んで、最初に頭に浮かんだ言葉を<b>欄に記述して下さい。記入の際には、他の人と相談せずに自分だけで記入して下さい。どのように書けば正解ということはありません。また、制限時間はありません。訂正は、なるべく2本線で行って下さい。
1.<a:これからは、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになるかもしれない。どういうことかと言うと、もしこれまでのように何もせずにそのまま生まれてきたとしたら、成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができるということだ>
<b>:(この空欄は、少なくても5行以上記述可能なスぺースを確保する)
2.<aさっき言ったことをさらに進めて言うとこうなると思う。これからは、子どもが生まれてくる前に遺伝子を変えて、何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康だったり、背が高かったりする子どもを産むことも技術的にはできるようになるということだ。本当にそうなるかどうかは分からないが。すると、カップルの希望に応じた子どもを作るといったSFのような話も夢ではなくなるかもしれない>
<b>:(同上)
3.<a:もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある。個人個人で違う遺伝子を検査したり診断したりすることによって、これから生まれてくる自分の子どもに、さっき言ったような何か深刻な問題が見つかったとしても、産みたいと思ったこどもだけを産むことができるようになるということだ。遺伝的な問題は、ある特定のガンになりやすいとか、アルコール依存症になりやすいとか、さらには攻撃的な性格になりやすいとか色々なことが考えられるようだ。ともかく、治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ないと思う>
<b>(同上)
本論は、応答型文章完成法を活用した言表分析により、被験者の無意識的な信念を言語化し分析する。個人が言語活動の主体として構築されていく過程で、発話行為や書く行為として実践・反復される一群の言説が生産される。<我々自身の無意識>は、この実践を媒介している。我々の経験と行為は、この実践の過程を通じて、我々自身の意思決定=選択行為として生成する。本論においては、被験者によって完成される応答型文章(応答文)の生成過程を媒介する文脈が分析される。
3. 「普遍化された優生主義」の言表分析
筆者は、2005年3月27日から9月1日にかけて、アンケート調査の対象者による回答(応答文)の第一段階の分析作業を行った。対象者は、民間株式会社である指定居宅サービス・指定居宅介護支援事業者に所属する職員13名(ケアマネジャー9名、その他4名)であるが、本論では、事例を以下に示す3名の応答文に絞る。なお、分析の第二段階~最終段階の作業時期は、2006年5月から2006年12月15までである。
*事例[1]の言表分析:属性;女性・40代・ケアマネジャー
1.
遺伝子を変えることは、生まれてくる前の子どもに対し、してはならないと考える。成長するにつれて、難病などになってしまうのを防ぐという目的のみに運用されるとは考えにくいし、倫理上、問題がある。天才の集団をつくることも、戦闘の集団をつくることも、可能になりうるし、遺伝子を変えることが許認可制ならば、管理する側が大きな権力を持つ可能性が高い。人間も、他の動物も、植物も、基本的には自然に存在するのが、地球の生命体として必要なのではないかと考える。
2.
子どもは、親の欲望に応じて存在するとは思えない。一個の別人格を持つ人間である以上、個人の遺伝子を勝手に変えること自体、許すべきではない。他にも前述のリスクがある以上、簡単に発動して良いとは思えない。また、個人の価値観なので、もっと健康だったり、背が高かったりすることが、遺伝子を変えてまで手に入れなければならないものなのか疑問である。
3.
羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので、中絶をした話を聞いたことがあるが、実際に産んだ後の負担を考えれば、否定することはできない。遺伝子異常の子供を持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある。実際に立場になってみないことには安易に発言できないが、深刻な問題についての基準は、明確にしておかないと、ささいな事で、出産しない親が増加するような気はする。
(1)遺伝子改変の正当化の論理――「難病の予防の特権性」
まず、本論述における基本的な分析テーマとして、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(遺伝子改変)」を設定した上で、このテーマを巡る正当化の論理を考えてみたい。上記事例1のテーマ文1に対する応答記述は、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(遺伝子改変)はしてはならない。何故なら、それが、運用上、難病の予防という目的に限定され得ないと考えられるからだ」と要約できる。  
もしここで、難病の予防という目的に限定すれば、遺伝子改変は肯定され得ると主張されているのだとすれば、その主張の正当化の論理はどのようなものなのか。この正当化の論理を、仮に「難病の予防の特権性」の論理と呼ぶ。ここで、難病の予防の特権性による遺伝子改変の正当化の論理、延命拒否の論理、(消極的または積極的)安楽死の論理が、共有する何らかの一貫した正当化の論理という基盤において通底していると想定できる。この何らかの一貫した正当化の論理を、次のように記述する。
正当化の論理:難病や終末期状態という概念に関わる、あるいはそれら概念が指示する状況においては、または将来的にそういった状況の実現が予想されるという条件の下では、(将来的に生まれてくる可能性がある者を含むものとして定義された)他者の生死という分岐を操作・決定すること(「受精卵の廃棄等による出生の予防または安楽死等による延命の中止=死」か「出生の許容または延命の継続=生」かの選択行為)が正当化され得る。
この論理においては、ある特定の状況下にある、または将来的にそういった状況下で存在し始める(生まれてくる)ことが予想される任意の他者を、その生死に関して操作・決定の対象とする主体が前提されている。
以後、他者の生死という分岐を操作・決定する思想と実践の総体を、「生命の選別操作」という概念で略称する。難病の予防の特権性による遺伝子改変の正当化の論理、延命拒否の論理、(消極的または積極的)安楽死の論理は、いずれも生命の選別操作という概念に基づいた正当化の論理という基盤を持つと考えられる。さらに、難病の予防に限定した遺伝子改変の正当化の論理と、この限定を欠いた場合に遺伝子改変を批判あるいは拒絶する論理は、ともに生命の選別操作という概念に基づいた正当化の論理の統御下にある。何故なら、これら両者において、難病の予防という限定の有無に応じた生命の選別操作の正当化という共通した核が存在するからである。
(2)「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることはしてはならない」という主張の正当化の論理
次に、テーマ文2に対する応答記述であるが、この主張は、「子どもは、親(「シングルマザー」等の一個人の場合を含む。以下同様)またはカップルの欲望に応じた生存価値を持つかどうかという基準に従って存在させられるかどうかが、またはその出生が許容されるかどうかが決定されるという事態が正当化され得る存在者ではない」と言い換えられる。
以上は、「子どもは、親またはカップルの欲望に応じた生存価値を持つように予定された形でこの世界へと存在させられてはならない(また逆にそうした生存価値を持ち得ないことが想定される場合に、この世界への出生が阻却あるいは予防されるような存在者であってはならない)」という論理である。この場合の「子ども」は、まだこの世界へと生まれてきていない仮想的な存在者と想定されているが、同時に、生命の選別操作の対象としても想定されている。
上述の意味での「子ども」が生命の選別操作の対象とされる場合、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という事態(遺伝子改変)は、以下の諸要素を同時に含意することになる。すなわち、(1)親またはカップルが、子どもが自分たちの欲望に応じた生存価値を持つかどうかという基準に従った意思決定=選択行為をする。(2) 親またはカップルが、上記の基準に従って、遺伝子改変という手段を使用した子どもの生産または非生産を行うという意思決定=選択行為をする。(3)この場合、遺伝子改変という技術的手段の現実的な状況下における使用(遺伝子改変という操作の現実的遂行)は、専門的医療技術者(または技術者集団・制度的メカニズムの総体)という親またはカップルにとっての他者に委託される。(3)-2言い換えれば、専門的医療技術者(または技術者集団・制度的メカニズムの総体)による上記手段の実行は、親またはカップルによる意思決定=選択行為を前提としたその委託された実現という形式を取る。
以上は、生命の選別操作の対象としての子どもがこの世界へと存在させられるかどうかが、またはその出生が許容されるかどうかが、親またはカップルの意思決定=選択行為によって、すなわちその意思決定=選択行為を根拠として決定されるという事態である。
(2)-2他者の価値観への問い
以上の分析から、テーマ文2に対する応答記述を、「子どもは、たとえ生まれてくる前であっても、親とは別の存在、あるいは一個の別人格を持つ存在である。そうである以上、これから生まれてくる子どもの、言い換えれば、親またはカップルとは別人格を持つ存在の遺伝子を勝手に変えることは許されない」と要約することができる。
ここで「親とは別の」(または他の誰とも別の)、その意味で一個の独立した人格を承認されているのは、ヒトの受精卵や胚細胞といった生殖細胞系列の現存を通して、これから生まれてくると想像されている存在者(まだこの世界へと生まれてきていない仮想的な存在者)である。さらに、たとえそういった生殖細胞系列が現存していなくても、単に仮想された状況において、これから生まれてくる者として想像されている存在者である。それは、そのような意味において、「生まれてくる前の子ども」と呼ばれる。また、その未来における存在(あるいは出生という事態)があらかじめ抹消されてはならない(その出生が「予防」されてはならない)存在者として、「これから生まれてくる子ども」と呼ばれる。ここでは、親またはカップルにとっての他者としての、ある仮想的な存在者が想定されており、独立した一個の人格を有する他者の遺伝子を勝手に変えることは許されないという原則的な前提が存在する。
ここで、「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない(その価値観自体を拒絶することを正当化し得ない)」という論を想定する。
その上で、先の「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても、親とは別の存在、あるいは一個の別人格を持つ存在である。そうである以上、これから生まれてくる子どもの、言い換えれば、親またはカップルとは別人格を持つ存在の遺伝子を勝手に変えることは許されない」という主張をする者が、上記の論を原則として認めるとする。その場合、この者は自らの主張を正当化することができるのか。さらに、ある個人の価値観が、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に肯定的であった場合、先の主張をする者は、そういった価値観への批判を自覚的に遂行しているといえるのか。
ここで、「自覚的に遂行している」とは、次の事態を意味する。すなわち、その者が、「遺伝子改変を肯定する価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論を原則として認めながらも、なお自らの価値観に依拠した上記価値観の批判を正当化可能な試みとして位置づけながら遂行しているという事態である。その場合、我々は、「個々人が(……)私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論を認める者が、同時に「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という論を主張するという事態を、正当化不可能なものと位置づけることはできない。
言い換えれば、「個々人が(……)私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない(その価値観自体を拒絶することを正当化し得ない)」という論は、特権的な正当化の力を持たない。すなわち、この論は、「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という論を掘り崩す力を持つことはない。
次に、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることに関する個々人の価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできないにしても、もっと健康だったり、背が高かったりすることが、遺伝子を変えてまで手に入れなければならないものなのか疑問である」という応答記述であるが、この記述を遂行する主体(以下「個人=記述主体」とする)においては、個々人の価値観に由来するものとして捉えられた「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」への肯定と否定との間で揺れ動く半ば無意識の葛藤があると考えられる。この葛藤には、「遺伝子改変という操作を現実的に遂行するかどうかの意思決定=選択行為は個々人(以下「個人」)の価値観に依拠する」という観念が、葛藤そのものと同様に半ば無意識の形で内在しているのではないか。以後の言表分析においては、まずこの意思決定=選択行為それ自体の概念的・方法論的規定を行うことになる。
(3)意思決定=選択行為の概念的・方法論的規定――「自らの価値観」の生成過程
テーマ文3に対する応答記述を分析対象として、個人の価値観と経験との関わりについて考えてみたい。この個人=記述主体は、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」といった話を聞いて、そのような経験をした個人の価値観を推測することになる。ここで、そうした経験を、その個人またはカップルの意思決定=選択行為として記述することができる。すなわち、この経験は、それ自体、その都度の意思決定=選択行為の生成過程として記述することができる。
以上の事態は、その個人またはカップルの意思決定=選択行為が、その経験を通じて、その経験と不可分なものとして生成したという形で記述可能である。また、もしその中絶という経験または意思決定=選択行為が、その個人またはカップルにとって初めて遭遇するものだとすれば、その経験または意思決定=選択行為によって、あるいはそれを通じて、その個人またはカップルの価値観が何らかの様態において生成したと記述することができる。つまりこの場合、意思決定=選択行為を導く個人の価値観があらかじめ存在していたのではなく、まさにこの経験あるいは意思決定=選択行為を通じて、個人の価値観が何らかの様態において生成したと記述することができる。
すなわち、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の総体を、個人またはカップルが記述可能なものとして捉えたときに、その個人またはカップルにとって「自らの価値観」が生成する。このとき、記述可能なものとして捉えられた個人またはカップルの意思決定=選択行為は、同時にこの個人またはカップルの価値観を表現する意思決定=選択行為として記述することができる。
(3)-2任意の個人=<私たち>の価値観への問い
次に、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という先の経験を個人またはカップルの価値観を表現する意思決定=選択行為として記述した上で、現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人、すなわち上記の個人またはカップル以外の任意の個人としての<私たち>がこの価値観を記述可能なものとして捉えるという事態を考える。
<私たち>がこの価値観を記述可能なものとして捉える(または捉えようとする)場合、この価値観は<私たち>にとっても了解可能なものとして、あるいは個々人の多様な言葉を通じて何らかの共有された核を持ったものとして捉えられている。このとき<私たち>は、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という経験または行為を、我がことのように想像することで、そのような場合にこの私が抱くかもしれない、または抱くに違いない考えはこのようなものであろう、と想定することができる。
ところで、こうした想定を何らかの共有された核としたときに<私たち>にとって記述可能なものとして生成する考え方の枠組みが、単に一般的なものとして記述された個人の価値観である。それは例えば、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば(想像すれば)、中絶を否定することはできない」といった記述が表現する価値観ということになる。
ここでのポイントは、この意味での個人の価値観は、先に見た「自らの価値観」とは厳密に異なるということである。言い換えれば、それは、先の「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という記述における個々人の(個人の)価値観なのである。
より抽象的なレベルで定義するなら、この意味での個人の価値観とは、「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という記述における個人の価値観である。また、この記述における主語=私たちとは、その都度焦点化される任意の現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>である。この「個々人がどのような価値観を持とうと、<私たち>はその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論理は、「個々人がどのような意思決定=選択行為(自己決定)を行おうとも、<私たち>はその個々人の意思決定=選択行為自体を誤ったものとして拒絶することはできない」という論理――いわゆる自己決定権を正当化する論理――と同じ位置を占めている。
さて、「遺伝子異常」(先の表現をここではそのまま使用する)が見つかった子どもを中絶することは、「生命の選別操作」という概念に包摂される意思決定=選択行為である。だとしても、<私たち>にとって単に一般的なものとして捉えられた、「中絶はやむを得ない、あるいは中絶は積極的に認められるべきだ」とする「個人の価値観」を持つと想定される個人において、そのことへの認識があるのか無いのか、またあったとしてもそれがどのような内実を持った認識なのかは、<私たち>にとっては明らかとはならない。
仮に<私たち>が「中絶はやむを得ない、あるいは中絶は積極的に認められるべきだとする価値観は、生命の選別操作を肯定するものである」と主張したとしても、その主張はそれ自身の正当化の根拠を持ってはいない。この事態は、先に見た、「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、<私たち>はその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論理(または「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論理)がそれ自身の正当化の根拠を持たないという事態と同じ位置を占める。
すなわち、現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の者として規定された<私たち>によるその現実の意思決定=選択行為の価値付け(階層序列化)と価値相対主義的中立化という上記二つの操作=記述行為は、いずれもそれ自身の正当化の根拠を持たない。
次に、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば、中絶を否定することはできない。遺伝子異常の子どもを持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」という記述であるが、ここではこの個人=記述主体は、中絶をした他者の話と、中絶をしなかった他者の話の両方を直接または間接的に「聞いたことがある」ということになる。この個人=記述主体は、中絶あるいは遺伝子改変という現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の者である<私たち>の内の一人である。だが、このことから、この個人=記述主体は「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもは、むしろ生まれてこない方が望ましい」あるいは逆に、「遺伝子異常を持っていたとしても生むべきである」という「自らの価値観」を持っていないとは必ずしもいえない。この個人が、たとえ中絶あるいは遺伝子改変という現実の意思決定=選択行為の主体ではなかったとしても、それによって先の「自らの価値観」が生成した他の何らかの現実の意思決定=選択行為の主体であったことはないとは必ずしもいえないからである。
ここにおいて、それぞれの個人に関して先に定義した意味での「自らの価値観」を特定することの困難さ、さらには「ある個人がある事柄に関してある一定の価値観を持っている」と(私自身を含む)誰かが誰かに関して判断することの困難さが浮上する。


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